CO.HACHIOJI元気な企業インタビュー

第43回 (有)スズキ事業所

ものづくりには色々な方法がある!

取材先 (有)スズキ事業所(代表取締役 鈴木 次仁)

所在地 八王子市中野上町1-21-4

電話 042-625-7610

e-mail suzukijg@sea.plala.or.jp

URL spc.gooside.com/

代表取締役 鈴木 次仁さん

メーカーは製品開発において、設計者が描いた図面を下請けに出す。設計者はどのように加工したら安価に、望みの部品が仕上がるかというところまで図面にはあまり盛り込まない。中には難しい形状や加工を要求するものまである。そんなメーカー側の要求に対し、単に成果品を仕上げるだけでなく、コスト面の提案をも行っているのが、『スズキ事業所』だ。難度の高い加工部品の図面を解きほぐし、ものづくりのために設計屋と加工屋とコーディネートを行っている代表取締役の鈴木次仁(すずき つぐひと)さんを訪ね、お話を伺った。

 

 

上京は昭和42年

社長の鈴木さんは、8人兄弟の次男として山形県天童市に生まれ育った。お父さんの職業が大工さんだったためかまさに職人。頑固一徹。「何か手に職をつけろ」というのが親の教育方針だった。そのため、鈴木さんは「本当のところ電気関係の勉強をしたかった」そうだが、兄が建築の道に進んでいたこともあり、「お前は土木を勉強しろ」と父親に言われ、昼間は家の仕事を手伝いながら、夜に地元の工業高校の土木科に通っていた。そんな時今後における鈴木さんの人生を左右する出来事が起きる。卒業をあと1年に控えた時、担任から「進学したらどうか」と勧められるのである。鈴木さん本人も進学することは全く考えてなく、当初父親も進学には反対したそうである。しかし、最後は「どうせ受からないだろうから、チャレンジしてみれば」と父親に言われたのを機に、ラジオの通信講座を利用したり、参考書を購入して猛勉強。その界あって見事鈴木さんは東京のある大学の理工学部(夜間)に合格するのである。この時昭和42年。大学に合格して上京していなければ、今のスズキ事業所が誕生していたかどうかは・・・。
 

中野上町の浅川沿いにある『スズキ事業所』ロゴのSPCはスペシャリスト・プロデュース・コントロールの略である。

 
 
 

 

『スズキ事業所』の誕生!

鈴木さんが書いた設計書の一部。見る人が理解しやすいようにできている。

上京すると、埼玉にいた父親の弟子の所に住み込みで下宿生活。昼間は大工の仕事を手伝い、夜は大学に通っていたが、学費を稼ぐまでいたらなかった。そこで、半年後に八王子にいるおばの所に移り、アルバイトで学費を稼ぎ通学するようになるが、アルバイト先で知り合った今の奥さんと、なんと大学2年の時に電撃的に学生結婚。そのため、大学に通いながら奥さんの勤めていたある電子系製造企業に就職することになる。いきなり大手メーカーの担当を任され「最初は電話に出るのも恐かった。でも、まわりが親切で、恵まれていたためなんとかなった」と振り返るが、こうして鈴木さんの社会人生活のスタートがきられたのである。そして、鈴木さんは会社に慣れてくると最初に取り掛かったのが、製作工程の効率・短縮化である。「ものづくりには色々な方法がある」と鈴木さんは言うが、分業化を徹底的に図ったのである。
 
この人はここ、この人はここというように工程ごとに分けていった。それにより、従前の3倍の生産があがったそうで、発注側の大手メーカーからもどうしてこんなに早く上がるのか不思議がって視察に何度も訪れたほどの成果を上げていった。
 
 しかし、いい時期は長くは続かなかった。「今の回路部品があったら凄かった」と鈴木さんは言うが、勤めていた会社は時代に先駆け色々なオリジナル製品を開発していったものの、社会の需要動向に合わず、倒産してしまう。そんな中でも人情に厚い鈴木さんは、社長や仲間のために最後まで会社に残り、債務整理等をおこなった。その姿に感銘した社長から次の就職先に、ある建築会社を紹介されたのであるが、「ものづくりを現場で体験し、その面白さを肌で感じ、設計なら自分にもできると思っていた」鈴木さんは、倒産した時に既に自分で会社を興そうと決心を固めていたのであった。こうして『スズキ事業所』が誕生。それは、昭和48年、鈴木さんが25歳の時であった。
 

 

 

社名に込められた社長の思い

 『スズキ事業所』という名だけを聞いただけでは、一体何をやっている会社なのか見当がつかない。しかし、この企業名には鈴木さんの思いが込められている。事業所というとどこかに本社があってその手足の存在。その考え方と同様で「お客様の手足になります。何でも言ってください」という意味なのだそうだ。スズキ事業所の創業時は設計から試作品づくりまで幅広く手がけていたが、自社で加工機械を購入することは資金的に難しかったため、知り合いから工作機械を借りてものづくりを行っていたという。

 「始めは見よう見まねだったため、なかなか製品の精度が思うようにとれなく苦労した。しかし、依頼先から試されることは楽しかった」と鈴木さんは置かれている現状を前向きに捉え、地道に顧客を広げて行ったのである。

非磁性キャスター。磁場計測器用にすべての部品を磁性を帯びない材質となっている。

 
そこで、仕事を進めていきながら習得した技術や知識と「土木・建築・機械といった一般的な分類ではなく、もっとごちゃまぜの設計があって良いのでは」と考えていた鈴木さんは、材料等の性質を考慮し、つくる人がわかりやすい図面の製作という、スズキ事業所のコアを設計にシフトし、アッセンブリと検査以外は外注するファブレス企業として活躍の場を探求していったのである。

 非磁性キャスター。磁場計測器用にすべての部品を磁性を帯びない材質となっている。

 

 
 

 

設計屋と加工屋のコーディネートを行うものづくりの指南役

宇宙衛星用にCCDカメラを装着するためのケース。当然ながら高精度加工を求められる。

スズキ事業所が行っているのは、ものづくりの指南役である。言い換えるとどうやってものを作りあげていくかを纏めていく設計屋と加工屋のコーディネートを行っているのである。実際「他社がこれはできない」と断れたものが回りまわってスズキ事業所にくることも多いそうだが、これを作ってくれと精度・形状・材質が図面で示されたものをもとに、鈴木さんは依頼先からの要求を満たすため、わかりやすい設計書を作成するのである。それは、作業工程ごと分別するという単純なことではなく、金属の材質を考えて、熱処理のタイミングから作業手順や方法まで指示するものなのである。それが抜け落ちると精度は得られず、安く仕上げることもまたできない。これは、「一方向からだけでものを考えてしまうとできないものも、見る方向の視点をずらし柔軟性を持つことによりできるものもある」という大学時に学んだ先生からの教訓が生かされているというのだ。
 

 ここに面白いエピソードがある。ある所から依頼された設計書をそのまま加工屋さんに提示したところ「できない」との回答。ここで、スズキ事業所で手を加え設計書を手直しし同社に見せると「できる」と変わってしまうほど、鈴木さんはわかりやすい設計書を書けるのである。現在、防衛庁向けの仕事や、三鷹にある国立天文台向けで宇宙衛星に使用する部品を頼まれている。これは無重力のなかで膨張しにくいインバー材やチタン材等の硬く粘性の高い素材を使っているが、これは削り方ひとつで反ってしまうなど加工は非常に難しいそうだ。このような国家プロジェクトの仕事が受けられるのは、スズキ事業所の信用と技術が認められていることに他ならない。

 

 

必要として貰えるところで力を発揮したい!

「人生も仕事も凸凹の大小はあるけれど良い時もあれば、悪い時もあり、トータルで見れば平になるもの。だからマイナスがあっても何時かはその分のプラスも絶対にある。従って1度や2度の失敗より、姿勢を重んじる仕事を大事にしている」と、仕事への考え方を鈴木さんはこう語る。また「ここまでやってこられたのは、取引のあった会社が単に儲け主義ではなく、人情味に厚かった」からだと人情に厚い鈴木さんならではの謙虚な言葉である。
 

今まで、HPか人づてからの紹介で仕事を受けるという受身だったため、営業活動は全くしたことがないそうであるが「うちを必要として貰えるならば、力を発揮したい。今まで培ったもので、産学連携のコーディネートもやってみたい」と積極的な事業展開を今後の抱負として語る鈴木さん。産産のコーディネートから産学のコーディネートへ。名前に込められたお客様の手足となる『スズキ事業所』がブレイクする。

 

 『産産のコーディネイトから産学へ』 今後の積極的な事業展開を話す鈴木社長

 
編集後記
 
スズキ事業所は、社員は5名という家族カンパニーで、工場を持たないでものづくりを行っている面白い企業だ。大手から発注される難解な図面を解きほぐし、請け企業にわかりやすく作り変えてしまうというビジネスが成り立っていることは、訪問するまで知る由もなかった。スズキ事業所の強みはいかに安価に効率よく仕上げられるか、その方法を導き出す点が付加価値となっている点である。よくよく尋ねてみると社長独自のスキルによるものが多く、社員にも、紙に方法を残しておいて欲しいとの要望があるという。社長は残した図面がマニュアルだと思っているそうであるが、是非そのセンスを次の世代に継承していってもらいたい。
 
(取材日2003年4月21日)