CO.HACHIOJI元気な企業インタビュー

第47回 (株)小木製作所

『一品料理』のプロとして、道を極めたい

取材先 (株)小木製作所(代表取締役社長 小木猛)

所在地 八王子市小宮町1180

電話 042-645-1325

 

代表取締役社長 小木 猛さん

昨今、生産ラインが海外に移管される中、日本の製造業が生き残る道は、多品種小ロット生産といわれている。しかし、かつてバブル時代には、作れば作るほどモノが売れる時代で、多くの会社は手間のかかる試作よりも量産物を手がけていた。そんな中、設立当初から『一品料理』(試作)一筋で地道に技術を磨き、今では部品の試作から装置の設計・開発まで、幅広く顧客ニーズに対応できる技術を身につけた会社が株式会社小木製作所である。今回、小木製作所代表取締役社長の小木猛(おぎ・たけし)さんに、『一品料理』に賭ける思いを語っていただいた。

 

 

会社の養成所で徹底的に基礎を叩き込まれた新入社員時代

小木製作所は、現社長の小木さんが昭和40年に個人事業として創業した。小木さんは、当時30歳。それまでの15年間の設計・加工技術者としての経験を経て独立したのである。「マイホームを持ちたい」という夢を持って...。
 

小木さんは中学を卒業すると、軍閥であった航空機の計器メーカーに勤務する。かつては戦闘機の計器類を製造していたこともあり、会社の持つ技術力もさることながら、優秀な人材が多く集まっていた。小木さんのように中卒で入社するケースは稀なことだったのである。そんな境遇の小木さんにとって幸運だったことは、中卒の社員を対象とした養成所の存在だった。養成所では、設計や加工の基礎となる機械工学、数学、さらには英語まで学ぶことができた。卒業するためには試験があり、落第すると正社員とは認めてもらえないという厳しいものだった。中卒ということで肩身の狭い思いをしていた小木さんであったが、反骨精神で徹底的に基礎を学び、晴れて正社員として配属されることとなったのである。

小宮町に立地する小木製作所。社内は整理整頓が行き届いている。

 
 
 
 

 

“試作”との運命の出会い

創業秘話を語る小木社長

無事養成所を卒業し、最初に配属されたのは映写機部門であった。しかし、それまでは需要が多かった映写機も、小木さんが配属された頃から徐々に斜陽になりつつあった。そんな時代でもあり小木さんは、ほどなく計測器事業部へと転属することとなる。そこでは、金属に限らずありとあらゆる試作品の設計や加工をこなした。これが現在の小木製作所の礎となったことは言うまでもない。それは部品にとどまらず金属歪み計や国産初となる原子力発電所の制御棒など一品物の試作や取付けまでに手をつけた。こうして、工業用計測器を中心に、アフターサービスまで幅広く手がけてきたことで、小木さんの心に少しずつ「自分でも出来る」という自信が芽生えてきたのである。
 

 

 

創業、そしてヒット商品の製造へ

 着実に技術を蓄積し、自信を深める一方で、元々優秀な人材の集まる会社だったこともあり、自分の能力を信じて独立創業する人が周りに多かった。そんな環境の中で、小木さんも「夢を持てた」という。そこで、小木さんは更に夜学に通いながら基礎づくりを行った。そして、28歳の時、独立をにらんで“2足のわらじ”をスタートさせる。会社勤めをしながら、外注先から仕事を受けられるよう2年間販路形成を行った。そんな“準備期間”を経て、いよいよ独立に踏み切ったのである。オフィスは、“夢”であったマイホームの一室。「退職金は新たに電話を引いただけで無くなってしまった」。当然設備投資が出来るはずも無く、設計を中心に、加工は外注で賄いながら試作品を納品するというスタイルで事業を展開したのである。
 
 

小木製作所は、既にISO9001を取得している

 
 7年間設計中心に事業を行ってきた小木さんに、ひょんなことからことから転機が訪れる。夜学に通っていた時代の友人が設立した会社から、小木さんが製作した試作品を商品として生産したいという話が舞い込んだのである。当然、数モノを作れる体制が整っているはずも無く、一つの選択を迫られることとなった。加工を外注に頼るのをやめ、自前で製造体制を整えるかどうか。それは同時に、せっかく手に入れたマイホームを手放し、多額の借金を背負うという苦渋の選択でもあった。
 

 
 

 

『一品料理』のプロとして積み上げた30年

30数年間、『一品料理』(試作)一筋で経営してきた。バブル期には量産を手がけ、景気の良かった企業を「指をくわえて」見るしかなかったという。当時は、試作など「儲からない」「面倒くさい」と避けられていた仕事である。「しかし、今になって思えば試作をやってきて良かった」と小木さんは振り返る。今、日本の製造業は多品種小ロット生産にシフトしている。『一品料理』の分野も段段と競争が激化してきてはいるが、“分に応じた仕事をまじめにやってきた”小木製作所のノウハウは一朝一夕には真似のできるものではない。もちろん、現状に満足している小木さんではなく、今年4月には社員一丸となってISO9001を取得した。常に他社との差をつけなくてはとの姿勢の現れである。

小木さんは、「今後も大手がやるような研究開発に手を染めるよりも、一品料理の道を極めていく」と力強く語る。「製造業であれば、自分が作ったものを人が認めてくれなければお金にならない」と語る小木さんは、今真剣に次世代へのバトンタッチを考え、若手の社員には“プロになれ”と激励しているという。小木さんの職人としての“プロ意識”は、着実に次世代へと浸透してゆくことだろう。

標準ガス発生装置(上)と、リークテスト装置(下)。OEMながら、こうした生産装置を開発・製造している。

 

 

 

いかにやる気を出させるか? ~小木社長の人材活用術~

小木製作所の今後について伺ってみた。小木さんは、「私の役目はここまで。これからは、若い世代に任せていきたい」と語る。各部門の部長に自覚を持ってもらい、どうしても判断できない事があったら社長のところへ持ってくるようにしているとのこと。今後の経営の中心として、営業部長のご子息を始め、岩田技術部長、野尻製造部長、そして田口製造課長に期待を寄せる。
 

岩田さんも野尻さんも中途で小木製作所に入社した。当時、小木社長が設計を行っていたが、それを設計経験の無い岩田さんに託した。また、野尻さんは旋盤工であったが、ある時部長として抜擢し、責任ある立場で仕事をしてもらうようにした。そうした小木さんの期待にこたえ、岩田さんも野尻さんも会社の主軸として活躍している。今ではそれぞれの人脈や技術を生かして、新たな分野の試作や装置開発を受注するほどになった。また、田口さんは、高校を卒業後、旋盤工として入社したが、すぐに岩田部長の下で10年設計を学ぶこととなった。工場長が退職したことを機に、現場に戻った田口さんは、今では製造現場を仕切っている。こうして着実に、次世代を育てている。

 

小木製作所は従業員23名ながら、そのうち6名も60歳を超えた方々がいる。小木社長の言葉を借りれば、「せっかく持っている匠の技術を眠らせてしまうのはもったいない」ということなのだ。技術を持った意欲ある高齢者を再雇用し、現役で働いてもらっていると同時に、新規採用の若手従業員の“教育係”としても期待しているのである。

 

試作部品から生産設備まで『一品料理』を、ユーザーのニーズに合わせて開発・製造しつづける小木製作所。「若い従業員が、次の夢を自分たちの手で育てていってもらいたい」――小木社長の“夢”は、しっかりと次世代へと受け継がれ、昇華していくことだろう。

 
 

小木製作所の次代を担う方々。 写真上から、小木営業部長、野尻製造部長、岩田技術部長、そして田口製造課長。

 
編集後記
 
取材の冒頭、小木社長に「ウチは100%下請けの会社。自社製品も無いので...」と非常に謙遜されていた。しかし、小木社長のお話を聞くにつれ、中卒で就職し、苦労を重ねながらもしっかりと“モノづくり”の基礎を学んできたからこそ、信頼を勝ち得るほどの製品を生み出してこれたのだと思えた。独立すると決め、最初の会社を退社する時、周りの同僚のほとんどが「お前には無理だ」と言われたそうだ。今では旧友から「成功してよかったな」と認められているそうだが、小木社長は「会社を無事に次世代へバトンタッチできたとき、“成功”といえる」と。至って厳しい。
 

話の中で「分相応」という言葉がよく出てきた。あまり発展性が無いようにも聞こえるが、言い換えると自社の経営資源(技術、人)をしっかりと見据え、その資源を活用してできることは徹底的にやろうという姿勢の表れであるとも言える。無いものねだりではなく、自社のポテンシャルを最大限に活かそうという“前向きな姿勢”だと感じた。

 
(取材日2003年8月1日)