CO.HACHIOJI元気な企業インタビュー

第106回 (株)アトム精密

『“乾杯”で繋いだ経営の糸。紡ぎ続けワンチームへと』

 

取材先 株式会社アトム精密(代表取締役 一瀬 康剛 氏)

所在地 東京都八王子市弐分方町571-1

電話 042-623-7050

URL atom-group.co.jp/

 

サラリーマンから一転、別会社の第三者承継者へ。

事業承継の事例は枚挙にいとまがないが、このようなケースは現在でも稀有なものであろう。今回取材に応じていただいた一瀬康剛(いちのせやすたか)氏は2007年㈱アトム精密入社するとともに代表取締役に就任した2代目社長である。

 

弐分方町に本社工場を構える同社は、工場の生産性向上を支える「ファクトリーオートメーションの専門家」として産業用機械の設計から開発、設置までを一貫対応するメーカー。1981年にカーオーディオ生産を事業としてスタートし2009年から現在の事業に移行した。

 

製造分野はモノを「搬送する機械」「検査する機械」「洗浄する機械」。これらは殆どの工場で一部または全て必要な工程であろう。その裏付けで、同社製造機械は、半導体・食品・医療・自動車分野等、様々な工場で活躍している。

 

今回は、一瀬氏のアトム精密入社前からの話を皮切りに、同社入社の背景・社長就任後の出来事、そして現在の同社の姿を時系列で紹介する。

                

代表取締役 一瀬康剛氏

アトム精密との出会い

 

熊本県出身の一瀬氏とものづくりの出会いは大学時代。地元大学の機械工学科を専攻する傍ら、先輩からの紹介でアルバイトに就いたのが、旋盤やフライスなどの金属部品加工を手掛ける製造業であった。立場に関わらず幅広な業務を任せてもらえる社風に魅了され、夢の中で新たな加工アイデアが浮かんでくるほど、ものづくりにのめり込んだ。就職活動では様々な規模や業種を見て回ったが「小さい規模で自分の良さを発揮し、存在を示せるところで働きたい」とアルバイトからの正社員への就職を決めた。

 

就職後は、設計や機械加工、生産管理、人材育成そして九州一円の営業担当に従事。時を経て28歳のとき、東京に新会社を設立するよう社長から業務責任者として任命を受けた。自社に繋がる部品加工や設計・組立の仕事獲得を狙った会社設立である。立地選定をはじめ新会社業務の責任者を一瀬氏ひとりが担う形となった。選定した場所は「八王子」。かつて中央線に乗り八王子を通過した際に熊本にある同地名(八王寺)に親しみを感じたことと、良好な交通アクセス・豊かな自然に目を付けたという。

 

八王子行きの前に、社長から同級生の八王子経営者の話を聞いた。その方こそが㈱アトム精密当時社長の洞口氏であった。拠点を移して間もなく、アポなしで訪問をしたところ、洞口氏は快く迎え入れてくれ、その日のうちに飲みに行くまでに打ち解け合えた。

 

再び、熊本へ

 

その後も週に1回は洞口氏と飲みに行くまでに親交は深まった。

ある時、洞口氏から「仕事を取るためには会社専用の建物がないと。グループ会社の2階が空いているからそこを使え」と提案が。有難い言葉に恐縮していたが、洞口氏はご厚意で2階部分の無償貸出、更にリフォームや会社看板設置までしてくれた。一瀬氏とアトム精密及びグループ会社(現在も同社グループの㈱南信精機製作所)との関係を持つ大きなきっかけとなった。

 

その後も洞口氏の力添えもあり八王子で業績を順調に伸ばした一瀬氏。ところが新会社設立から4年後に熊本から様子を伺っていた社長から「八王子を引き上げてこい」と指令が。

 

今後の見通しも良好だっただけに驚きを隠せなかった。社長にはこまめに報告をしていたが、長い間直接会えていなかったことから、いつの間にかお互いの認識にズレが生じていたのだろう。八王子からの撤退を余儀なくされ、急遽取引先への挨拶回りをすることに。その間、洞口氏からは「うちに来ないか」と何回も打診があった。

 

「多くのお客様にご迷惑をお掛けしました。特に、大手メーカーからは励みのお言葉もいただきましたが、大変なお叱りも受けました。今後更に発展計画の事業でしたから当然です。その事業はやがて、当時から十倍の数十億円単位の規模となったそうです。予測が出来ていただけに歯がゆい思いをしました。」

 

東京を引き上げる挨拶回りを繰り返す日々は、身も心も重くなる一方であった。気持ちが切れ、東京に疲れ、九州地方での転職を考える様に。そんな時、挨拶回り先で熊本に新工場を設立する社長より入社の誘いがあった。快諾した一瀬氏は再度熊本へと拠点を戻した。

 

“乾杯”そしてアトム精密代表へ

 

転職後もアトム精密社長の洞口氏は毎月八王子から熊本に来ては一瀬氏をお酒に誘ってくれた。会話では必ず「うちに来ないか」と説得があった。心苦しくも一瀬氏の決心は固い。一方で、洞口氏の体調が徐々に優れなくなっていることを見た目からも感じていた。

 

そして2006年10月。洞口氏は余命半年もない病身を抱えながらも、病院から外出許可をもらい、一瀬氏の元を訪れた。居酒屋にて1杯目のお酒を注文すると洞口氏は「アトムに誘うのは今回が最後。東京に来るなら乾杯を、来ないなら献杯してくれ」と元気なく述べた。

 

「洞口さんを目の前に献杯は出来ない。かといって乾杯も。でも何も言わない訳にはいきません」

 

考える暇もなく決めた一瀬氏の選択は“乾杯”だった。

 

 

家族や勤め先の説得も一筋縄ではいかなかったが、2007年2月、一瀬氏は家族とともに八王子に降り立ち、代表権を持つ副社長としてアトム精密に入社。その約2週間後、洞口氏は帰らぬ人となった。親族と同じように看取らせてもらい、葬儀も最初から最後まで対応させてもらったという。

 

迫りくる最大の危機

 

入社から1カ月はあっという間に過ぎ、ようやく落ち着きを取り戻してきたころ、役員からは手のひらを返したように、売上や資金繰り状況を問い詰められた。損益計算書を見てみると売上総利益の時点でマイナスとなっていたのである。借入金は年々増加しており、いわば「借金するために仕事をしている状態」であった。更に、経理担当に一任されていた未払金の整理もままなっていない等、資金繰りの優先順位が付けられていなかった。

 

そこから資金の実権を一瀬氏が握ることにし、当時付き合いのある銀行の状況確認を全て確認した。とある金融機関職員の熱意や信用性が響き、従業員の反対を押し切りメインバンクの切り替えも実行した。アトム精密が再生に向けて動き出した第一歩であった。

 

その間、一瀬氏は様々な異業種団体に顔を出していた。その中で紹介されたのが当会主催の人材育成事業「はちおうじ未来塾」であった。

 

「人脈を作りたいと思い入塾しました。ですが最初の自己紹介では『会社の業績が厳しいのでいつどうなるか分からない。みんなと一緒に卒業出来ないかもしれない』と伝えました。そんな私を同期はいつも励ましてくれました。自分を保てたことや、絶対会社を何とかしたいという気合が焚きつけられたのは、未来塾の存在が大きかったです」

 

未来塾卒業発表会(発表者一瀬氏)

 

リーマンショックや東日本大震災も、融資実行を繰り返し何とか乗り切ったアトム精密。しかし2013年、9月分と12月分の資金がショートする先行きが見え、金融機関に計6000万円の融資を申し込まざるを得ない状況となった。

 

「手形発行による資金ショートですから、融資が無いと実質倒産です。金融機関にもその旨を説明し、何とか9月と12月分の融資を承諾いただき、9月は乗り切りました」

 

しかし、程なくして突如12月分の融資見込が厳しい状況にあると金融機関から告げられた。

「申込時にお伝えした内容を再度訴えましたが、業績が改善していないことを指摘され、茫然としました。有効な手立てが見つからないまま、あっという間に10月になりました」

 

悩みぬいた末、一瀬氏は3000万円の空伝票を手に取引先に赴いた。

 

最大危機の結末と役員への打ち明け

 

空伝票を手に「この伝票の検収をあげてください」と頭を下げた。意外にも取引先の社長は実質3000万円の貸し出しをあっさりと承諾してくれた。しかし八王子に戻ると「お金は銀行から借りた方が良い。銀行が貸さない程、危険な状態なのか」と連絡を受ける。そこからおよそ1カ月間毎日、取引先まで通い財務状況や経営計画を説明し続けた。しかし中々首を縦に振ってはもらえなかった。

 

そして11月30日。一瀬氏は金融機関に連絡を入れた。

「明日、取引先へ最後のお願いをしに行ってまいります。これでだめなら同日会社を畳みます」。すると、金融機関支店長から「私も同行させてください」とお申出をいただいた。

 

12月1日。支店長と共に飯田橋の取引先へ。

必死の説得に取引先社長から「15分後にお金を振り込むよう手配をかける。それで生き残れるのか」。一瀬氏は「生き残れます。立ち直れます」と支店長と涙を流しながら言葉を振り絞った。無事3000万円が振り込まれ倒産危機を免れた。今回のことで手形の恐ろしさを知り、二度と手形を出さないと心に決めた2013年の出来事であった。

 

何とか倒産危機を免れた師走。一方で、状況は一気に好転したわけでは無かった。まだ余裕の無い運転資金を何とかやりくりすべく、売上着金を確認したら即、取引先への支払を細切れに分けて一部振り込むという綱渡りの資金繰り状況であった。

 

心身ともに疲れ切っていた一瀬氏。

12月30日。仕事納めが済みガランとした工場内に2人の役員を呼び出し、話を切り出した。

 

「この会社は死んでいる。十分な売上は無い、先行きも見えない。救いようがない。君たちが一生懸命やっていて大変なのはわかる。けども君たちは簡単に「検収月がズレてしまった」「受注が取れませんでした」と言う。予めの相談も無しに。是が非でも売上を取りに行こうと本当にしているのか」

 

「俺は疲れた。力を使い果たした。そんな中、会社の様子を見ていると、頭がおかしくなって何か気の間違いを起こしそうなところまで来ている。だから、年明け4日に会社を閉鎖しようと思う。この後弁護士のところに行く」と告げた。

 

予想外の好転。そして海外進出へ。

 

役員の必死の説得で2カ月だけ猶予を持つことととした。この期間で売上が増える根拠はない。だが、最後に信じることにした。

 

すると年明け6日程したころ、これまでの状況が嘘の様に受注が舞い込んできた。何かを変えたというより、世の中の流れがそうだったのか、年度末駆け込み需要がそうさせたのか。真相は不明であるが、取引先から借り入れた3000万円は半年で完済できた。その後も引き続き、他の仕事も潤沢にいただけるようになり、何と翌年からは黒字化に一転。現在の財務状況も健全な状態となっている。

製品組立

工場内

 

一連を振り返り、国内だけに振り回されるのは会社にとって良くないと判断し、海外に目を向ける様になった。早速行動に移すと同社の産業装置に対する海外の反応は上々であった。

 

「すぐに海外受注を取ることができました。しかし国内とは様々な面で仕事の進め方が異なり、多くの失敗がありました。それを教訓として海外の人材雇用の必要性を認識しました。まずは、未来塾の仲間とフィリピン・韓国と海外人財のインターンシップを始めて外国人の戦略的雇用に取り組みました」。

 

日本の人口減少及び少子高齢化が現実のものとなっている昨今、中小企業が若い人材を確保することは益々難しくなってくるであろう。また、海外と仕事をする上では、グローバルに活躍できる人材の確保は必須。外国人雇用は自然な流れだったと振り返る。

 

「初めての取り組みの連続でした。外国政府や大学などとやり取りしながら、色んな書類手続きを進めてようやく日本で就業できます。業務量は相当なので、だからこそ手続きの専門業者さんがいるのだと感じたのですが、自社はこの先ずっと外国人雇用はしていくので、今でも弊社従業員が業務を担っています」。

 

「手続きよりも大切なことは『来てくれた子たちをどうやって育てていくか。活躍の場をどういう風に作っていくか』です。日本語や文化の教育、そもそものかれらの持つビジョンは何か。お互いを理解し合える心がけが大切であると弊社は考えております」。

 

多様性を発揮し未来を紡ぐ企業へ

 

ダイバーシティ経営を推進しながら、全社一丸で人材教育に注力しているアトム精密。キーワードは「一人ひとりのスキルマップ」と「定期的な勉強会」である。

 

同社独自のスキルマップは数百項目で構成されているので、社員個々人の得意または課題項目が可視化され、各自がやるべきことが自ずとわかる。それだけでなく、新入社員研修の際、課題項目に精通した先輩社員を指導に当たらせられるため、教わる側と教える側の意欲向上にも繋がる仕組みとなっている。

 

勉強会では、5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)とISOを絡めて、定期的な社内ISO巡回監査の実施や、ビジネスマナー研修・英会話・日本語教室・PC教室等々、様々なカテゴリーの研修を行っている。更に、インプット中心だけでなく、年に一回「成果発表会」としてチームに分かれて取り組んだ5Sなどの社内改善を発表する機会も設けている。

 

社内研修会の様子

 

 

「勉強会は当初、私主導で実施していましたが、最近では従業員から『こういったテーマを企画実施したい』と提案をもらうので、任せています。彼らだけで行う勉強会も増えてきています。頼もしさも感じながら、ちょっぴり寂しさもあります」と優しいまなざしで話す。

 

こうした取組が評価され、2017年には「東京都中小企業人材育成大賞知事賞」受賞、2019年には経済産業省「新・ダイバーシティ経営企業100選」に選定された。同社最大の危機から数年足らず、一瀬氏の想いが従業員に浸透し全社一丸で経営し未来に向かう企業の姿にまでなった。

 

今後の展望

アトム精密入社の経緯から現在まで、何度も危機を乗り越えた一瀬氏。今後の展望についてお話しを伺った。

 

「ようやく普通の会社になってきたと思っています。少し前は従業員教育など、当たり前のことが当たり前に出来ていないことが多かったです。今は会社の変革期。新卒も毎年取るようになり若返りを進めています。この先しぼんでいく会社ではなく、強い会社を目指し、温めている段階にあります」

 

「数年後、会社が“ワンチーム”となり、共に会社を創りあげる姿勢・空気感が醸成されるように、これからも人の大切さを最重要視して経営していきます。その中で、新商品も数年後生み出していきたいですね。慌てず焦らず創りあげていきます」

 

乾杯が繋いだ事業承継。そこから暫くは、まるで一本の糸で明日を繋いでいるかの如くの経営だったかもしれない。しかし幾多の危機を乗り越えアトム精密は、これからも技術力と多様性を活かしながら糸を紡ぎ続け、ワンチームで未来へと走り続ける。

 


 

編集後記
今回記事では、一瀬氏の体験や想いにスポットを当てた内容を紹介させていただいた。日頃は、時折冗談を交えながら柔和な雰囲気で場を和ませてくださる一瀬氏。取材時も温かい空気感そのままであったが、一つひとつの言葉に圧倒され続けた時間であった。その時抱いた様々な感情が、手汗で滲んだメモを読み返すたびに鮮明に蘇ってくる。

 

取材終わりに「当時は自分しか見えていなかったが、今は色々見えてきた。僕より大変な人がいることも知った」と話してくれたことも深く心に刺さった。今後のアトム精密の発展を心より応援していくとともに、八王子市の産業支援団体として如何にして自身の役割を全うしていくべきか。自分の存在意義を今一度問いかける機会となった。